学校の授業などでも扱われる「小倉百人一首」。この「小倉」って一体どういう意味なのでしょう?
今回は、小倉百人一首の歴史や時代背景について紹介します。
小倉百人一首とは
そもそも小倉百人一首とは何なのか、改めて確認してみましょう。小倉百人一首とは、現代ではかるたとして用いられる事が多いですが、元々は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家の歌人、藤原定家が選んだ秀歌撰です。秀歌撰とは和歌集の意味、中でも「秀でた和歌を撰び集めた和歌集」と呼ぶのが適切でしょうか。
小倉百人一首が成立したのは13世紀の前半と推定されており、江戸時代には絵入りの歌がかるたの形態で広く庶民に広まっていたといいます。
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「小倉」の意味は?
小倉百人一首が成立した時期には、この歌集に一定の呼び名はなかったそうです。「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などの呼び方もあったようですが、最終的に「小倉百人一首」で定着しました。ただ、多くの候補に「小倉」という文字が入っていますね。
実は藤原定家がこの歌集を作成したのが、現在の京都市右京区に位置する小倉山だったというのです。そのために「小倉」の文字が入っているのですね。藤原定家自身も、「忍ばれむ 物となしに 小倉山 軒端の松ぞ なれてひさしき」と、小倉山を詠んだ歌を詠んでいますよ。
小倉百人一首はなぜ作られた?
小倉百人一首の作成を藤原定家に依頼したという宇都宮蓮生は、京都嵯峨野に建築した別荘である小倉山荘の襖の装飾のために百人一首の選定を依頼したと言われています。
宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて活動した武士で、1205年に起こった畠山事件の際には御家人として北条氏側に与し、功を挙げています。しかし、その後謀反の疑いをかけられたことなどから、出家。財力に恵まれたことから、京常盤や宇都宮、桐生などに念仏堂を建てました。
宇都宮蓮生は歌人としても優れた
宇都宮蓮生は父や母、祖母譲りで歌人としても優れ、宇都宮歌壇を京都歌壇、鎌倉歌壇に比肩するほどの地位に引き上げるのにも貢献、日本三大花壇の礎を築いた人物です。同族である藤原定家と親交が深く、自身の娘を藤原定家の嫡男である為家に嫁がせています。
宇都宮蓮生自身の和歌も新勅撰和歌集に3首、続後撰和歌集に6首など、複数の勅撰和歌集に撰ばれています。勅撰和歌集とは天皇や上皇の命によって編纂された歌集のことですね。
小倉百人一首に選ばれた歌は?
小倉百人一首は百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られています。有名な歌集には、905年頃に作られた最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」や鎌倉時代初期に成立した「新古今和歌集」などがありますが、百人一首に選ばれた歌はいずれもこういった勅撰和歌集に収載されている短歌から選ばれていますよ。
なお、奈良時代末期に成立した日本最古の和歌集、「万葉集」からは選ばれていませんが、そもそも古今和歌集などの歌集に含まれる歌の中にも万葉集の歌を元歌とする歌があり、百人一首も万葉集とは無関係ではありません。
後の世の百人一首
小倉百人一首の影響は強く、後年にはまた別の百人一首が複数作られました。1483年には足利義尚が選んだ「新百人一首」が、18世紀には伊達吉村が選んだ、室町時代から江戸中期にかけての武将や大名による和歌を採録した「新撰武家百人一首」が、1874年には染崎延房が編集した、幕末志士の歌を集めた「義烈回天百首」が作られています。
他にも百人一首はまだまだあるのですが、実は戦後にも百人一首は作られていて、2012年には「今昔秀歌百撰」というものが作られていますよ。
最後に
今回は、小倉百人一首の歴史や時代背景について紹介しました。名だたる歌人の歌を贅沢に一人一首ずつ選んで作った小倉百人一首。長年にわたり愛され続けるのも納得です。