学校の授業などでも扱われる「小倉百人一首」。近年では漫画やアニメの影響で競技かるたとしても注目を集めていますが、ふと疑問に抱く小倉百人一首の小倉とは、一体どういう意味なのでしょう?
実はその名前の背景には、編纂者である藤原定家と「ある場所」との深い関わりが隠されています。さらに歴史を紐解いていくと、膨大な和歌の中から選ばれた百首に隠された意外な共通点や、現代の私たちが知る本格的なスポーツや遊びとは、そもそも全く違う目的で作られていたという驚きの歩みが見えてきます。
今回は、そんな知れば知るほど奥深い小倉百人一首の歴史や時代背景について詳しく紹介します。
小倉百人一首とは
そもそも小倉百人一首とは何なのか、改めて確認してみましょう。小倉百人一首とは、現代ではかるたとして用いられることが多いですが、元々は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家の歌人、藤原定家が選んだ秀歌撰です。秀歌撰とは和歌集の意味、中でも「秀でた和歌を撰び集めた和歌集」と呼ぶのが適切でしょうか。
小倉百人一首が成立したのは13世紀の前半と推定されており、江戸時代には絵入りの歌がかるたの形態で広く庶民に広まっていたといいます。
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「小倉」の意味は?
小倉百人一首が成立した時期には、この歌集に一定の呼び名はなかったそうです。「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などの呼び方もあったようですが、最終的に「小倉百人一首」で定着しました。ただ、多くの候補に「小倉」という文字が入っていますね。
実は藤原定家がこの歌集を作成したのが、現在の京都市右京区に位置する小倉山だったというのです。そのために「小倉」の文字が入っているのですね。藤原定家自身も、「忍ばれむ 物となしに 小倉山 軒端の松ぞ なれてひさしき」と、小倉山を詠んだ歌を詠んでいますよ。
百人一首誕生の舞台!定家が愛した京都「小倉山」
舞台となった小倉山は、嵯峨野・嵐山エリアに広がる標高296メートルの小高い山です。桂川を挟んで対岸の嵐山とともに、古くから美しい紅葉の名所として愛されてきました。
平安時代から、この周辺は貴族たちがこぞって別荘を構える風雅なリゾート地でした。豊かな自然に囲まれた環境で、晩年の定家は「小倉山荘(時雨亭)」と呼ばれる別荘を構えていたと伝えられています。
現在でも山の周辺には、二尊院や常寂光寺、厭離庵など、定家の山荘跡とされる史跡が複数残っています。秋の美しい景色を楽しみながら歴史に思いを馳せると、古典文学の世界がより身近に感じられるかもしれませんね。
参考サイト:京都観光Navi
小倉百人一首はなぜ作られた?
小倉百人一首の作成を藤原定家に依頼したという宇都宮蓮生は、京都嵯峨野に建築した別荘である小倉山荘の襖の装飾のために百人一首の選定を依頼したと言われています。
宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて活動した武士で、1205年に起こった畠山事件の際には御家人として北条氏側に与し、功を挙げています。しかし、その後謀反の疑いをかけられたことなどから、出家。財力に恵まれたことから、京常盤や宇都宮、桐生などに念仏堂を建てました。
宇都宮蓮生は歌人としても優れた
宇都宮蓮生は父や母、祖母譲りで歌人としても優れ、宇都宮歌壇を京都歌壇、鎌倉歌壇に比肩するほどの地位に引き上げるのにも貢献、日本三大歌壇の礎を築いた人物です。同族である藤原定家と親交が深く、自身の娘を藤原定家の嫡男である為家に嫁がせています。
宇都宮蓮生自身の和歌も新勅撰和歌集に3首、続後撰和歌集に6首など、複数の勅撰和歌集に撰ばれています。勅撰和歌集とは天皇や上皇の命によって編纂された歌集のことですね。
小倉百人一首に選ばれた歌は?
小倉百人一首は百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られています。有名な歌集には、905年頃に作られた最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」や鎌倉時代初期に成立した「新古今和歌集」などがありますが、百人一首に選ばれた歌はいずれもこういった勅撰和歌集に収載されている短歌から選ばれていますよ。
なお、奈良時代末期に成立した日本最古の和歌集、「万葉集」からは選ばれていませんが、そもそも古今和歌集などの歌集に含まれる歌の中にも万葉集の歌を元歌とする歌があり、百人一首も万葉集とは無関係ではありません。
出典:全日本かるた協会
実は「恋の歌」だらけ!定家の選定基準
藤原定家は、どのような基準で百首を選んだのでしょうか。実は飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、約600年間もの代表的な和歌がほぼ年代順に並べられています。歴史の移り変わりを感じられますね。
歌人の顔ぶれを見ると、天皇や皇族から武士、僧侶まで幅広い身分の人々が含まれています。紫式部や清少納言など、女性歌人も21名選ばれました。当時の女性文学がいかに盛り上がっていたかが伝わってきます。
歌のテーマにも、定家ならではの強いこだわりが見え隠れします。全100首のうち、「恋」を詠んだ歌が43首、「秋」の歌が16首と過半数を占めているのです。
当時の貴族にとって、恋愛の駆け引きは和歌を詠む大きな理由でした。秋の哀愁漂う景色も深く愛されていたため、定家の美意識や当時の社会の様子が色濃く反映されていると言えます。
遊びから競技へ!小倉百人一首の小倉とは
もともとは貴族の鑑賞用として誕生した小倉百人一首ですが、時代が下るにつれて徐々に遊戯の道具へと姿を変えていきました。
小倉百人一首の小倉とは何かという歴史的な背景を知った上でかるたの歩みを辿ると、より一層その面白さや魅力が伝わるはずです。優雅な遊びから現代の私たちがよく知る熱い競技へとどのように進化を遂げたのか、その驚きの変化について次で詳しく解説します。
かるたの誕生!貴族の文化から江戸の「大衆娯楽」へ
室町時代後期になると、ポルトガルから「カルタ(Carta)」と呼ばれる新しいカードゲームが日本に伝わりました。この外来のカルタと、平安貴族の伝統的な遊びである「貝覆い(貝合わせ)」の文化が結びつきます。上の句と下の句を合わせる「百人一首かるた」の原型が、ここで誕生しました。
江戸時代に入ると、木版印刷の技術が大きく発展し、手書きで高価だったかるたの大量生産が可能となります。これにより、一部の特権階級のものであった百人一首が、一般の人々の間にも爆発的に普及していきました。
文字の読み書きや古典の教養を身につけるための教育玩具として、またお正月の家族団らんを彩る娯楽として広まり、現代では手軽に遊べる百人一首の無料アプリなども登場し、日本の生活文化の中に深く根付いていったのです。
畳の上の格闘技!本格スポーツ「競技かるた」への進化
明治時代に入ると、百人一首は地域ごとに異なっていたルールを統一する動きが起こり、現在の競技かるたのルールの基礎が作られました。1904年(明治37年)には、ジャーナリストの黒岩涙香らが「大日本かるた協会」を設立して第1回大会を開催しました。
現在では、記憶力や瞬発力に加えて高度な心理戦が要求される本格的なスポーツへと進化を遂げました。その激しい試合の様子から「畳の上の格闘技」と呼ばれるほど、熱気あふれる競技となっています。
毎年1月上旬には、天智天皇を祀る滋賀県の近江神宮で最高峰のタイトル戦である「名人位・クイーン位決定戦」が開催されます。日本一の座をかけた白熱の戦いは、多くの人々を魅了してやみません。
近年は人気漫画やアニメの影響で、若年層の競技人口が急増しています。毎年夏の「全国高等学校かるた選手権大会(かるた甲子園)」も盛況を博しており、その魅力は現代へしっかりと受け継がれているのです。
後の世の百人一首
小倉百人一首の影響は強く、後年にはまた別の百人一首が複数作られました。1483年には足利義尚が選んだ「新百人一首」が、18世紀には伊達吉村が選んだ、室町時代から江戸中期にかけての武将や大名による和歌を採録した「新撰武家百人一首」が、1874年には染崎延房が編集した、幕末志士の歌を集めた「義烈回天百首」が作られています。
他にも百人一首はまだまだあるのですが、実は戦後にも百人一首は作られていて、2012年には「今昔秀歌百撰」というものが作られていますよ。
最後に
小倉百人一首の小倉とは何かという疑問から出発し、藤原定家が愛した美しい「小倉山」の風景や、実は「恋の歌」が数多く選ばれていたという意外な選定基準まで、知れば知るほど奥深い魅力がありますよね。
名だたる歌人の歌を贅沢に一人一首ずつ選んで作った美しい鑑賞用の色紙は、時代を超えて庶民の大衆娯楽となり、現代では熱気あふれる「競技かるた」へと驚きの進化を遂げました。長年にわたり愛され続けるのも納得です。









